礎(下)

394『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 04:21:42 ID:EEO410Fs0
『礎(下)』

 明るい月光に照らされた、瑞紀ちゃんとたか子さんの後ろ姿。
2人は急ぐでもなく、躊躇うでもなく、しっかりとした足取りで歩き続ける。
やがて、山の方へ向かう道の脇道に入った。暫く歩くと立派な石組みの泉に着く筈。
その泉の名は『ウブガー(産泉)』、名前の通り古くからその水はこの集落で生まれた赤子の
産湯に使われてきたと聞いた。もちろん生活用水、農業用水としても。
この地に集落が開かれた当時から人々の命を繋いできた、古い泉。
祭事の初日、男達がびしょ濡れだったのはこの泉で沐浴をしたからだろう。
泉まで十数m、たか子さんが立ち止まった。泉に向かうのは瑞紀ちゃん一人。
俺たちが行けるのも其処までという事。たか子さんに追いついて指示を待つ。
「どうぞ、こちらで。」 たか子さんは外灯に照らされた小さな階段を指し示した。
階段を上るとコンクリートの小さな東屋。木製のベンチに腰掛ける。
「水を汲みに来る人たちの待合所です。あの泉から此処に水を引いていて。
あ、始まりますよ。山と水の神へ呼びかける神歌。」
泉を囲む石組みより一段高くなった場所、小さな祠の前に瑞紀ちゃんが正座している。
古い言葉を紡ぐ、通りの良い、少しだけハスキーな声。 何だか懐かしい響き。
ふと、風に乗って微かな芳香が届いた。 何故? 線香を焚いている様子もないのに。
「お父さん、へびさんだよ。すごく大きいの。」 蛇? じゃあこの香りは蛇の、でも何処に?
「翠、これからお母さんが良いと言うまで喋っちゃ駄目よ。
私達の声を聞かれると瑞紀ちゃんが危ないから。分かった?」
翠は両手で口を押さえ、大きく頷いた。その仕草が堪らなく可愛い、しっかりと抱き締める。

395『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 04:26:09 ID:EEO410Fs0
 祈祷を終えたのか、瑞紀ちゃんが立ち上がり、泉の中に降りていく。
石組みに設けられた3つの湧き出し口。それぞれ幅1m、高さ50cm程。
湧き出した水はいったん浅いプールのような場所に流れ込み、そこから水路に流れている。
瑞紀ちゃんはプールの真ん中辺りに跪いた...??水が、光っている。
いや、強い光を放つ小さな緑色の粒子が、湧き出した水とともに流れている。
まるで大量の蛍が水の中を流れていくようだ。
光の粒の数はどんどん増え、もう泉全体がボンヤリと光って見える。
そして湧き出す泉の水音を乱して、それは現れた。
真ん中の湧き出し口から伸びる首と大きな頭。緑色の燐光に包まれた、巨大な蛇の頭部。
とにかくデカい。まるで超大型のニシキヘビ。文字通りの大蛇。
瑞紀ちゃんは跪いたまま胸の前で手を合わせている。小さく呟く言葉は聞き取れない。
やがて、大蛇はゆっくりとその全身を現した。瑞紀ちゃんを囲むようにプールを一周、
更にもたげた鎌首の高さが約1m強。おそらく全長はゆうに10m以上。

396『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 06:59:17 ID:EEO410Fs0
 50cm程の距離で、正面から瑞紀ちゃんを見下ろす大蛇。チロチロと蠢く舌。近い。
さっきSさんが言った通り、声さえ聞かれなければ大丈夫なのか...あ。
瑞紀ちゃんの右隣、そして背後に跪く女性の姿。一体何処から、いつの間に?
瑞紀ちゃん以外に、4・5・6、7人。白い着物と鉢巻き、勾玉と髪飾り。
最前列が瑞紀ちゃんを含む2人。その後ろに3人ずつの二列、計8人。
曲玉の首飾りと、鳥の羽根の鮮やかな髪飾り。瑞紀ちゃんと同じ、ノロの衣装。
細面、丸顔。横顔や体格はそれぞれ違うが、皆20代から30代に見える。
そして、胸の前で合わせた両手から感じる、どこかしら瑞紀ちゃんに似た雰囲気。
そうか。おそらく、集落の成立以来この地と人々を護ってきた、代々のノロクモイ達。
死してなお、この集落を想うその魂も加わって、神と人々の縁を結ぶ仲人の大役を担う。
去った12年間の恵みに感謝し、更に今後12年間の恵みを乞う祭事。
瑞紀ちゃんの右隣に跪いたノロクモイが唄い始めた。神歌、女性にしては低く、渋い声。
どうやら瑞紀ちゃんの少しだけハスキーな声は、御先祖様からの遺伝らしい。
次々と声が加わっていく。最後に加わったのは瑞紀ちゃんの声。
重なり合い響き合う声が、力強く空気を震わせる。何とも言えない荘厳な響き。
全身に、鳥肌。 この神歌こそ、集落に豊かな恵みをもたらす約束の礎。
人々からは神々への信仰を、神々からは人々への恵みを。それを仲介する、ノロクモイ達。
大蛇は目を閉じ、じっと神歌に聞き入っている。
神歌を三度繰り返して唄い、ノロクモイ達は揃って深く頭を下げた。
深夜の泉に、流れる水の音だけが響く。

397『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:03:57 ID:EEO410Fs0
 満足そうに、大蛇が眼を開けた。動き出す。その体はゆっくりと湧き出し口の中へ。
大蛇の尾が湧き出し口に消えて数十秒、詰めていた息を吐く。もう、大丈夫。
プールに視線を戻すと、既にノロクモイ達の姿は消えていた。瑞紀ちゃんが一人だけ。
それを待っていたように、たか子さんが大きな紙袋を持って階段を降りた。
瑞紀ちゃんは両手で掬った泉の水を肩からかけている。
神々しい横顔。白い着物を彩る緑色の光の粒。美しい、まるで天女のようだ。
ずっと見詰めていたいが、紙袋の中身は替えの着物だろう。気を遣って目を逸らした。
瑞紀ちゃんとたか子さんが戻ってきたのは2〜3分後。俺たちに構わず、集落への道を。
「翠、もう喋っても良いわよ。お利口さんでした。」 Sさんは藍を抱いたまま翠の頭を撫でた。
「お母さん、あの大きなへびさんはかみさまだよね?」
「そう、でも蛇じゃなくて蛟(みずち)。だから龍神の仲間。あ!」 Sさんの視線を辿る。
瑞紀ちゃんが立ち止まった。たか子さんが振り向いた瞬間、その体は地面に頽れた。
「お父さん!みずきちゃんが。」
翠を姫に託して走る。瑞紀ちゃんの傍、たか子さんの隣りに膝を着いた。
「瑞紀を家まで、お願いします。」 「はい。」 良かった、呼吸に乱れはない。
初仕事にしては重過ぎる役目。力を消耗して気を失ったのだろう。短期間に、よくぞここまで。
立派に役目を果たしたノロの後継者、その体を抱き上げた。一刻も早く、ノロクモイの家へ。

398『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:05:39 ID:EEO410Fs0
 翌朝、目が覚めると寝室には俺1人。慌てて着替え、台所へ向かう。
藍を抱いたSさんが新聞を読んでいた。たか子さんは鍋の火加減を見ている。
味噌汁の、良い香り。
「あら、昨夜は頑張ったんだからもう少し寝てても良かったのに。
Lと翠は散歩。瑞紀ちゃんはまだ寝てるけど、先に朝御飯にする?」
藍を抱いたSさんの笑顔。
「あ、いえ。それより、あの泉に行ってみたいんですが。」
「昨夜で祭事は全部済んだから問題ない筈。たか子さん、どうですか?」
「構いませんよ。」 振り向いたたか子さんの、穏やかな微笑。
「写真も?」 「勿論です。」
二日酔いで頭痛と微かな吐き気。しかし、デジカメを持って俺は玄関を飛び出した。
昨夜はすっかり感覚が麻痺していたが、蛟、あの大蛇は立派なUMAではないか。
もし何か痕跡が残っていれば是非記録して置きたい、そう思った。 しかし。
泉に通じる道には沢山の軽トラックやオートバイ、水缶やペットボトルを持った大勢の人々。
昨夜俺たちが祭事を見学した東屋も、賑やかに談笑する人たちで超満員だ。

399『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:07:06 ID:EEO410Fs0
「おやRさん、あなたは水を汲まないんですか?」
ノロクモイの家の近く、俺たちが良く買い物をする商店の店主。
俺と翠は去年の夏休みからの顔馴染みで、買い物の度に話し掛けてくれる。
「というか、今朝は何故こんなに沢山の人が水を汲みに来てるんですか?
前に瑞紀ちゃんに案内して貰った時には誰も居なかったのに。」
「祭事の翌朝、此処で汲んだ水には不思議な力があると言われてるんですよ。
この水でお茶やコーヒーを淹れて飲むと体が丈夫になるってね。
まあ、私はもっぱら島酒の水割りです。」 店主の手には2Lのペットボトル。
「じゃあ毎年、祭事の翌朝はこんなに沢山の人が?」
「はい。ただ、その中でも今年は特別です。何しろ24年に一度の機会ですから。
是非Rさんも水を汲んで下さい。瑞紀ちゃんがノロになるって決めたのはRさんのお陰だし、
昨夜は大事な役も立派にこなしてくれたと聞きました。
私たちは皆、Rさん達には本当に感謝してるんですよ。」

400『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:09:29 ID:EEO410Fs0
 24年に一度?12年に一度じゃなく?
それに『大事な役』って? 昨夜、俺は見学してただけだぞ。
質問を口に出す前に、店主は一礼して歩き出した。きっと一刻も早く水割りを。
振り返る。水汲みの順番を待つ人々の列、皆の明るい笑顔。
あれだけの人が出入りしたのでは、この泉にはもう何の痕跡も。
まあ、仕方ない。俺の個人的な興味より、集落の人々の信仰が優先するのは当然だ。
泉から帰る途中で姫と翠に会った。走り寄ってきた翠を抱き上げる。
「お父さん、どこに行ってたの?」 「昨夜の泉。一緒に帰ろう。」 「うん!」
3人でノロクモイの家に戻ると瑞紀ちゃんも起きていて、皆で朝御飯を食べた。
食後。たか子さんが淹れてくれたお茶を飲むと、二日酔いがすうっと消えて楽になった。
「このお茶を飲んだら二日酔いが消えたんですけど、もしかして。」
「昨夜、あの泉で汲んだ水で淹れました。祭事の直後は力が強過ぎて
体に合わない人もいますから、一晩おいた後で使う方が良いんです。」
たか子さんは廊下の奥へ歩いて行く。きっとノロクモイには先にその水で淹れたお茶を。
「その水で作ったジュースを藍に飲ませたの。きっと御利益があるわね。」
Sさんは藍に頬ずりをした。翠も姫も、もちろんSさんと瑞紀ちゃんも美味しそうにお茶を飲む。
「Sさん、さっき泉に行ったら□◆商店のおじさんがいて、
今年は24年に一度の機会って言ってたんですけど、12年に一度じゃないんですか?」
「私じゃなくて、その祭事を執り行った本人に直接聞いたら良いじゃない。ね、瑞紀ちゃん?」
はにかんだような笑顔。 そう言えば今朝の瑞紀ちゃんは口数が少ない。

401『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:13:31 ID:EEO410Fs0
 「瑞紀ちゃん。何故24年に一度の機会なのか、教えてくれる?」
「はい。12年後は、泉じゃなくて浜での祭事です。12年おきに泉と砂浜で交互に。
スクという小魚の群れが海岸に寄る時期ですから、その祭事は旧暦の6月〜7月頃ですね。」
(※スクはアミアイゴなどアイゴ類の幼魚、毎年決まった時期に数万匹単位の群れで現れる。)
成る程、それなら泉での祭事は24年周期。そして、もしかしたら。
「浜の祭事でも実際に現れるのかな?その、昨日の蛟みたいな神様が。」
「現れる筈です。でも、それを知ってるのは祖母とたか子おばさんだけですね。」
そこに、茶器を載せたお盆を持ったたか子さんが戻ってきた。
「たか子おばさん、おばさんは前回の祭事もお祖母さんの補佐をしたんですよね?
Rさんが、その時に現れた神様の事を知りたいって。おばさんはその神様を見たんですか?」
たか子さんは少し考えた後、小さく呟いた。 「昨夜見学を許可されたのだから。」 笑顔。
「見ましたよ。『大きな亀の神様』って言う意味の名前で呼ばれてる神様。
でも、首がとても長くて胴体も細長いから、亀には見えませんでした。
その神様がノロクモイの呼びかけに応じて、海の恵みを連れて来て下さる。あの浜に。
青く光る小さなモノたちが浜に打ち上げられ、砂に溶けていく景色は、今でも忘れられません。」
「瑞紀ちゃん、紙と鉛筆貸してくれる?」 「はい。」
たか子さんの証言に基づいて俺が描き上げたスケッチ。
細長い胴体、長い首と小さな頭。体の割に大きくて丈夫そうな4枚のヒレ。
それは亀と言うより、むしろ太古の海棲爬虫類、首長竜に似ていた。

402『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:19:26 ID:EEO410Fs0
 「お父さん、これネッシーだよね。海のかみさまはネッシーなの?」
「ネス湖にいるからネッシーでしょ。だからこれは。」 「玄武、かも。」 「え?」
Sさんは俺の描いたスケッチをじっと見つめている。
「これが『大きな亀の神様』なら、昨夜の蛟と合わせて玄武のイメージに重なる。」
確かに、玄武は大きな亀と大蛇の組み合わせとして描かれることが多い。
「あるいは亀の胴体と蛇のように長い首、これ単独でも玄武の...まあ、それは置いといて。
2柱の神の恵みで豊作と豊漁を約束された集落。人々と神々の縁を結ぶノロクモイ。
本当に素敵。引退した後この集落で暮らす夢、ますます魅力的だわ。」
ノロとの契約に基づいて、この地に豊かな恵みをもたらす神々。それはつまり。
「その神々は式に近い存在なんですね。だから化生している間は実体を持つ。
もし同じような存在が他にもいて、何かの条件で化生して実体を持つのなら、
世界中で目撃されてきた未確認動物は、殆ど説明が付きます。」
「神格を持っている以上、式よりずっと高位の存在。ただ、術者やノロとの契約がなくても
自在に化生できるから、その姿を目撃した人には未確認動物そのものに見えるでしょうね。
古今東西、数ある未確認動物の正体の1つが、あのような存在であることは間違いない。」
そうか、化生している間は実体を持つのだから、目撃されるだけでなく攻撃を受ければ
深手を負い、死体のようになることもあるだろう。しかしそうなれば化生が解けて、
その体はやがて霧消する。もちろんその『本体』は無傷。
恐らくそれが、未確認動物の死体が保管されているという確実な事例が1つも無い理由。
日本で射殺されたという『鵬』も、記録だけでその死体は残っていない。

403『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 23:45:57 ID:EEO410Fs0
 「お父さん、みどりはみずきちゃんのことがききたい。ノロになれるってきまったんでしょ?」
そう言えば、昨夜瑞紀ちゃんは。俺はたか子さんに面を着けてもらって、それから?
「瑞紀ちゃんはどうやってノロの後継者って認められたの? 瑞紀ちゃんが間違って
俺のケイタイに電話して来た時は、てっきりSさんかLさんがノロクモイの代わりに」
「間違ってない!私、Rさんに。」
瑞紀ちゃんは突然席を立ち、足早に廊下を。 とてつもなく、気まずい時間。

404『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 23:48:25 ID:EEO410Fs0
 「ええっと、憑依が上手く行くようにってRさんにお酒を勧め過ぎたのは失敗でした。」
「おねえちゃんとおかあさんは、何か、しっぱいしたの?」 翠は泣き出しそうだ。
「昨夜の事、ホントに憶えてない?」 「はい、お面を着けて皆が喜んだ後の事は。」
「小屋で瑞紀ちゃんの着替えを手伝ったでしょ?それで勾玉の首飾りと鳥の羽根の髪飾りを。」
あ! 突然、蝋燭の灯りと裸体の映像。柔らかな感触、俺は昨夜瑞紀ちゃんの素肌に。
「憑依が深くなりすぎて記憶が飛んだのは私とSさんに責任が有りますけど、電話の件は。」
「確かに、『間違い電話』って言ったのは、挽回できるかどうか怪しいわね。」
「あの、一体何の話ですか?」
「昨夜、瑞紀ちゃんの着替えを手伝った、それは思い出したのね?」
「はい。でも、それは僕じゃなくても。だって代々のノロは。」
「R君?」 「はい。」 「裸を見せるなら、せめて好きな人にって思う気持ち、分からない?」
「じゃあ、あの時。」 「そう、瑞紀ちゃんは最初からあなたに頼みたかったのよ。その役を。」
「きっと、瑞紀ちゃんは部屋にいます。修復するなら今しかありません。」
「いや、だって代々のノロが稀人にセジを授けられるなら、個人的な好き嫌いは。痛ててて。」
「R君、君、思い上がってる?」 「思い上がるなんてそんな。だって前回もそれ以前も。」
「基本、稀人は公募制なの。だから。」
ふと、甦る記憶。お面を着けた時の、微かな潮の香り。もしかしてあれは。
「そう。前回、稀人役を勤めたのは瑞紀ちゃんの祖父。
必死で村一番の漁師になって、その役を勝ち取ったのよ。大好きな女性のために。」
「Rさん、行ってらっしゃい。それでも駄目だったら私たちも協力しますから。」 姫の、微笑。

405『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 23:50:22 ID:EEO410Fs0
 廊下の奥、ノロクモイの部屋の1つ手前。瑞紀ちゃんの寝室。深呼吸して、襖をノックした。
「瑞紀ちゃん、居るんでしょ?入るよ。」 返事はない。 5秒待って襖を開ける。
瑞紀ちゃんは窓際に座っていた。振り向いてはくれない。寂しそうな後ろ姿。
「御免。昨夜は、飲み過ぎて。だから憑依は上手く行ったけど、記憶が飛んでた。
でも、さっき全部思い出したよ。昨夜、瑞紀ちゃんは、とても綺麗だった。」
「私、あの役は、絶対Rさんに。それは私の、我が儘だって分かって居たけど。」
「瑞紀ちゃん、俺はSさんとは違う。色々な事が前もって分かる程の力は無いんだ。だから。」
小さな肩にそっと触れる。何もかもが愛しくて、胸の奥が痛む。
「私も、SさんやLさんみたいに綺麗じゃないし、2人みたいな力もないから。」
「違う。それは違う。悪いのは俺。瑞紀ちゃんの気持ちを分かって上げられなかった。」
柔らかな体をしっかり抱きしめる。薔薇の花の、香り。
「瑞紀ちゃんの御両親に、会わせてくれないかな?」 「え?でもそれは。」
「きっと、俺たちの関係が宙ぶらりんだから、こんな擦れ違いが起こるんだよ。
だから区切りを付ける。ちゃんと瑞紀ちゃんの御両親に話をして、許してもらおう。」
「本当に、良いんですか?」 「うん。なるべく早くにね。」

406『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 23:52:25 ID:EEO410Fs0
 祭りの3日目は月曜日、昨日までに比べれば静かな雰囲気。
夕方から、公民館で祭事というよりは豊年祭っぽい演し物が色々あるらしい。
午前中は皆でのんびりと昼寝をし、午後からお祭りの雰囲気を楽しんだ。
瑞紀ちゃんの両親と会ったのはその翌日。あるレストランの個室、夕食に招待した。
まずは2人に頭を下げる。「初めまして、Rです。今夜は御出頂き感謝します。」
「こちらこそ、御招待頂いて。有り難う御座います。」
しかし、父親の言葉はそれ以上続かない。すぐに料理が運ばれてきた。
当然だが、何とも気まずい雰囲気。殆ど誰も喋らないまま夕食を食べる。
やがて飲み物とデザート。沈黙に耐えかねたように、父親が口を開いた。
「Rさん、瑞紀の命を助けて頂いて有り難う御座いました。このような場を設けて頂いてから
改めてお礼を申し上げるのではなく、すぐにでもそちらに伺うべきでした。
しかし家の事情でそれもままならず、どうか失礼をお許し下さい。」
「僕たちの出会いが縁となり、こちらが望んだ事ですから、どうかお気遣い無く。
むしろあの出会いが瑞紀ちゃんの、いえ、瑞紀さんのノロになりたいという希望を生みました。
結果的にそれが御両親の御心労の原因となっている事を、申し訳なく思っています。」
瑞紀ちゃんが沖縄を離れたのは、本人と両親がノロになる事を希望していなかったからだ。
「瑞紀。お前の正直な気持ちを聞かせて。たか子姉さんから話は聞いてるけど、
お前の気持ちが分からないと母さん達はどうしようもない。」 初めて母親が口を開いた。

407『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 23:54:40 ID:EEO410Fs0
 「Sさんは、お祖母さんが立派なノロで、今もあの集落を護ってると私に教えてくれた。
それからRさんたちは『何時か引退したら、立派なノロに護られてる土地で暮らしたい。』って。
だから私、ノロになりたいって思ったの。何時かRさんたちがあの集落で暮らしてくれるように。」
「お前、何言ってるの。そんな気持ちでノロになんて。」
「最後まで聞いて!」 「駄目だよ、瑞紀ちゃん。」 固く握りしめた手を、そっと押さえる。
「...大声、出して御免なさい。確かに始めはその気持ちだけだった。
でも、お祖母さんとたか子おばさんの手伝いをする内に、分かってきたの。
お祖母さんとたか子おばさんが、あの集落の人達にどれだけ尊敬されてるか、
集落を護ることがどれだけ大切で、どれだけやりがいのある仕事なのか。そういう事が。
だから今はRさんたちの事だけじゃなく、私自身が絶対ノロになりたいと思ってる。
大好きなあの集落を、何時か私の力で護れるようになりたい。」
「ノロである間は、入籍出来ない。それは、聞いてるでしょ?本当に、それで良いの?」
「SさんとLさんの事は最初から知ってた。だから入籍なんて全然考えてない。
私、力を玩具にして占いのバイトしてたから、始めはRさんに嫌われてた。
でも今は少し好きになってくれて、翠ちゃんと一緒に旅行にも来てくれて。だから...」
黙って俯いた瑞紀ちゃんを見つめ、両親は溜息をついた。

408『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 23:57:35 ID:EEO410Fs0
 「Rさん、私達の一番の望みは瑞紀の幸せです。」
「はい。僕にも娘がいますから、お母さんの御気持は分かるつもりです。」
「あの集落でノロになることが、本当に瑞紀にとっての幸せでしょうか?
しかも絶対に籍を入れられない、Rさんとの事実婚以外選択肢が無いなんて。」
「勿論、御両親が許して下さるまで、友人としてのお付き合いから先には進みません。」
瑞紀ちゃんは驚いたように俺を見詰めた。縋るような瞳、胸が痛む。でも、言わねばならない。
「僕たちの一族のしきたりが、今の日本の常識から大きく外れている事は理解しています。
御両親がそれをとんでもないことだと考えるのも、ごく当たり前のことでしょう。
ただ、瑞紀さんの優れた資質を活かすのは全く別の問題です。
瑞紀さんの力、その優れた資質を活かすためには、ノロになるしかありません。
お願いです、どうかそれだけは信じて下さい。
何故僕たちのように力を持って生まれてくる人間がいるのかは分かりません。
でも、僕たちには、この力を使って果たすべき天命があると信じています。
僕は沖縄で言うならユタのような立場、術を使う仕事の報酬で生計を立てています。
決して人の道に反した事はしていないし、出来る限りの人助けもしてきました。
それでも、僕たちのような人間を、胡散臭い蔑むべき存在だと思う人もいるでしょう。
それはそれで仕方の無いことだし、宿命だと思って受け容れるしかありません。
その点、瑞紀さんは僕たちとは全く違います。」

409『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/19(火) 00:03:57 ID:h8QhofLM0
 「それは、どんな?」
「瑞紀さんの言った通り、ノロは皆から尊敬される存在です。その地域を護り、
皆の精神的な支えとなる。だからこそクモイ(雲上)という敬称で呼ばれるのだし、
土地や財産など、生活の基盤を王府から保証され、それを代々相続してきました。」
あの集落でも、ノロクモイの家とその敷地、それからかなりの広さの畑を
代々のノロクモイが相続してきたと、たか子さんから聞いていた。
「だからノロは『この仕事は幾ら、ここまでするなら幾ら。』そんな金勘定とは無縁の存在。
瑞紀さんのお祖母さんは、僕たちの一族にも滅多に居ないような力の持ち主ですが、
恐らく瑞紀さんもお祖母さんに並ぶ程の力を身につけ、立派なノロになれる筈。
ノロになるのは瑞紀さんの天命。どうかその希望を受け容れて、応援してあげて下さい。
天命に従う瑞紀さんの幸せには、御両親の変わらぬ愛情と応援が絶対に必要です。」

410『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/19(火) 00:07:20 ID:h8QhofLM0
 「今、分かりました。」 黙っていた父親が口を開いた。
「瑞紀には、力を持っていることを鼻に掛けて、他人を少し見下したような所がありました。
でも、本土から帰ってきた瑞紀は変わっていたんです。親の私達がビックリする位に。
大学の勉強も、ノロの修行も、その他何事にも真剣で一生懸命で。
Rさんの親戚の家で働かせてもらいながら色々教えて頂いたと聞いていましたが、
それだけでは無かったんですね。Rさんたちがどれ程真剣に自分の力と向き合っているか、
それを肌で感じたから、瑞紀は変わったんです。恵子、これなら安心して良いんじゃないか?」
「はい。考えたくもなかったけど、力を持って生まれた以上、ノロにならないとしたら、
将来ユタになるしか道はない。それよりはずっと、ずっとノロになってくれた方が...」
? いや、本物ならユタはユタで立派な仕事だろう。
思わず俺は怪訝そうな表情を浮かべたかも知れない。 父親は俺の顔を見て微笑んだ。
「Rさん、ユタという言葉はユタの前では使いません。何故だか分かりますか?」
「いいえ。それは、何故ですか?」
術者、術師、あるいは陰陽師。俺たち自身も他人も、その名を憚る事などないのに。
「ユタに相談することを『ユタを買う』と言うんです。金を積めば都合の良い事を言ってくれる、
人の不幸につけこんで金を毟り取ろうとする、そんなイメージが強いからでしょうね。
ユタになって、『買われて』暮らすより、
例え入籍出来なくても本当に好きな人と一緒になった方が幸せです。
Rさんなら、きっと瑞紀を大切にしてくれる。」

411『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/19(火) 00:13:33 ID:h8QhofLM0
 「瑞紀さんの気持ちはとても嬉しいし、僕も瑞紀さんが好きです。
だからこそこれからも真剣にお付き合いして、お互いの気持ちを育てたい。
でも、正直僕たちの気持ちがどんな風に育つのか、それは未だ分かりません。
友情のままなのか、兄弟のような愛情に育つのか、それとも男女の愛情に育つのか。
それに、瑞紀さんにはこれからも御両親の助けが絶対に必要です。
御両親に賛成して頂けないなら、友人から先の段階には進みません。
御両親に賛成して頂けるまで待つつもりですが、勿論他に好きな人が出来たらそれでも。」
「他に好きな人なんて、絶対無い!どうして...」
瑞紀ちゃんは両手で顔を覆って俯いた。小さな肩が震えている。
母親が見かねたように瑞紀ちゃんの肩を抱いた。「大丈夫。ずっと応援するから、頑張って。」
「Rさん、私達は賛成です。どうか、これからも瑞紀を、宜しくお願いします。」
「有り難う御座います。僕は絶対に瑞紀さんを裏切りません。御安心下さい。」

412『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/19(火) 00:15:37 ID:h8QhofLM0
 レストランからの帰り道、小さな公園の駐車場に車を停めた。
瑞紀ちゃんはあれから一言も喋らず、目も合わせてくれない。
「瑞紀ちゃん。折角御両親のお許しをもらえたんだから、もう、機嫌直して。ね。」
「...許してもらえなかったら友だちで良いって。他に好きな人が出来たらって。酷い。」
「酷いかもしれないけど、方便じゃない。本当の気持ちだよ。」
「私、両親の許しなんてなくてもRさんの」 その唇を人差し指でそっと抑えた。
「将来、子供が生まれても、瑞紀ちゃんはそれで良いの?」 「え?」
「お父さんが一族の当主に即位したから、Sさんは小さい頃に親戚の養女になった。
翠や藍をSさんの実の御両親に会わせるだけでも特別な許可が必要なんだ。
Lさんは、早くに死別した御両親の顔も覚えていない。だから自分の子供を愛せるのか
自信が持てなくて、子供を受け容れる覚悟が中々出来なかった。それで今年、やっと。」
「私、全然知りませんでした。2人はいつも素敵で、思い通りに生きているとばっかり。」
「今、此処に瑞紀ちゃんがいるのは、御両親のお陰だよね。
何時か瑞紀ちゃんを女性として好きになって、俺達に子供が出来たら、
一番に瑞紀ちゃんの御両親に喜んでもらいたい。
それが出来ない事情を経験してきたから、これだけは譲れない。どんなに君が好きでも。」
「R、さん。」

413『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/19(火) 00:17:23 ID:h8QhofLM0
 「俺がずっと君と一緒に住めるとしたら、運良く生き残ってお爺さんになってから。だから
僕達の子供を育てるには、どうしたって君の負担が大きくなる。御両親の助けが絶対に必要。
もし御両親の助けが得られないなら、君一人に子育ての負担は掛けられない。分かって」
不意に胸が詰まって言葉が途切れた。今夜は言霊を使わないと決めていた事も、
最後までそれを守れた事も、何一つ気休めにはならない。本当に俺は、間違っていないのか。
次の瞬間、目の前に綺麗な顔、吸い込まれるような、黒い双眸。
「やっぱり、私、馬鹿ですね。いっつも我が儘で、自分勝手で。」
「そうじゃ無い。俺たちの一族のしきたりが、常識とかけ離れているだけだよ。」
「その一族の人のお嫁さんになるのに、自分の考えだけにこだわって。だから私、馬鹿。
Rさんは、こんなに私の事を大切に思ってくれているのに。それに私達の子供の事も。」
俺の首に回った手に力が篭もる。

414『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/19(火) 00:20:11 ID:h8QhofLM0
 慌てて柔らかい体を引き離し、距離を取る。
「ストップ。そこまで。まだ友達、なんだから。」 「もう、両親は許してくれたのに。」
「瑞紀ちゃんはまだノロになってない。約束、したでしょ?」 「...分かった、ことにする。」
何とか理性を保ちつつノロクモイの家に帰り着くと、玄関で翠が迎えてくれた。
その後ろに藍を抱いたSさんと姫。2人は俺をそっちのけで瑞紀ちゃんの肩を抱いた。
「良かったね、瑞紀ちゃん。」 「Rさんは瑞紀ちゃんの事になると妙に鈍いんです。
去年の旅行の時にキチンとしてくれたと思ってたのに、結局今年まで。御免なさい。」
「いいえ。Rさんは、ちゃんと話してくれて。両親も許してくれたから、もう。」
「みずきちゃん。お祝いのおかしがあるよ。」 「うん、有り難う。」
ええっと、成功以外考えていなかったらしいこの段取りは一体?

415『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/19(火) 00:29:30 ID:h8QhofLM0
 「元々、この問題は恵子が許す許さないでは有りません。
力を持って生まれたのですから、ノロになるかどうかを決めるのは瑞紀自身です。
そしてノロになると決めた切っ掛けはRさんへの想い。瑞紀にはRさんとの縁があるという事。
瑞紀は本当に幸せです。出来れば、私はノロになりたかった。でも器が足りなくて。
母と、瑞紀の助けになるなら、私の人生にも意味があるのだと信じる事が出来ますけど。」
そうか、だから結婚せずにノロクモイの補佐をして、通常の祭事なら仕切れる程の修行を。
「たか子さん、あなたはこの集落に是非必要な人です。今までも、そしてこれからも。
もしあなたがいなければ、ノロクモイは引退するしかなかった。
そうなれば、この集落にノロは不在。神々との契約も更新されぬまま、何時か尽きる。」
その言葉の、ゆったりと温かい響き。 でも、Sさんでなければ語れない、重い言葉。
「ノロは花、あなたは花を支える枝。枝なしに咲く花など、普通はないのですから。」
「有り難う、御座います。」 たか子さんはハンカチで目尻を押さえた

416『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/19(火) 00:35:02 ID:h8QhofLM0
 「それで、瑞紀ちゃんがノロになるのに、どれくらいかかりますか?」
「その母は、後継者と認められてから3年かかったと聞きました。
でも瑞紀は、既に昨夜母の代役を。もしかしたら、あと3年かからないかも知れません。」
「ノロになったら、この集落を長期間、離れることは出来ませんよね?」
「はい。どんなに長くても、二泊三日がギリギリです。」
「私はそれまでに、瑞紀ちゃんに出来るだけ沢山の経験をして欲しいと思っています。
もちろん旅費も、旅行の段取りも、全部Rが責任を持ちますから。」
「宜しくお願いします。」 「あの、Sさん。僕は綺麗さっぱり置いてけぼりですが。」
「日本の美しい四季の景色、数ある古くからの祭事、それらを瑞紀ちゃんに体験してもらうの。
そのナビゲーターをあなたにお願いしたいんだけど、やっぱり無理かしら?」
「いいえ、今は無理でも、それまでに頑張ります。絶対です。」 「うん、良い返事。」

『礎(下)』 了

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