約束(上)

598『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:20:26 ID:/QxSN9gc0
 少し開けた窓から流れ込む潮風、微かに混じるディーゼルエンジンの排気臭。
この街では比較的大きな港に俺は車を停めた。渡船や船宿の看板が幾つか見える。
地元では釣り場としてもメジャーな港らしい。途中の釣具屋で買った釣り情報誌を開く。
見知らぬ土地ではあるが、久し振りの釣りに俺の心は浮き立っていた。

 『上』から指示された研修、平たく言えばある場所で修行をするために、
俺はその街に一ヶ月ほど滞在することになっていた。今まで滞在した中で一番大きな街。
藍が生まれてまだ四ヶ月、どうにも気が乗らないが、こればかりは仕方ない。
術の修行だけならSさんや姫に指導して貰えば済む話。
しかし、この土地にある期間滞在して修行することが必要なのだとSさんは言った。
「術者の個性によって、どの場所で修行するかは違う。縁の深い神様の下で修行すれば、
比較的短時間で感覚が研ぎ澄まされるし、基礎的な能力も高まる。それにね、この修行の
指示が来たのだから、『上』があなたを一人前の術者として認めたということ。
これから仕事の依頼も少しずつ増えてくるわよ。頑張って修行して来てよね、『お父さん』。」

599『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:22:29 ID:/QxSN9gc0
 一ヶ月もの間ホテルや旅館で生活するのは不経済だし、どうしても食事に不満が出る。
俺はいわゆるマンスリーアパートを借りて自炊する生活を選んだ。
修行の場所は町外れにある古い神社とその周辺、毎日朝6時から約3時間の行を修める。
アパートと神社の間、移動は徒歩(これも修行の一部)、往復で約2時間。
朝食抜きで5時には出発、行を終えてアパートに戻るのが10時頃、食事をしたらしばらく昼寝。
数日してその生活に慣れてくると、俺は次第に時間を持て余し気味になった。
特に昼寝から覚めた後、夕食までの時間が長くてどうにもならない。
早めに夕食を食べて朝まで寝てしまおうかとも思ったが、昼寝の後ではそうそう眠れない。
もちろん修行の間は深酒も出来ない。そこで思いついたのが釣りだった。

600『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:25:16 ID:/QxSN9gc0
 この港でタチウオが釣れているという情報と、ポイントの地図を確かめた後で車を降りた。
途中の釣具屋で買い揃えた釣り具一式を持ってポイントの防波堤を目指す。
平日の午後、釣り人の姿は多くない。これなら防波堤のどこでもルアーが投げられそうだ。
その時。
突然の寒気と耳鳴り。反射的に『鍵』を掛け、立ち止まって辺りの様子を窺う。
目指す防波堤の方向から、何かが俺の意識を探っている。
『何処へ消えた?』 『勘違いか?』 『そんな筈はない』 『さっき確かに』
ねっとりと絡まり合う、複数の気配を感じる。次第に濃度を増す粘液質の悪意。
ああ、此所は駄目だ。メジャーな釣り場かもしれないが、俺には合わない。
いわゆる心霊スポットでも、何かを『感じる人』と『感じない人』がいるのと同じ。
ここにいる『それら』は俺に強く反応した。当然何かの目的が有って干渉しようとした訳だ。
本格的に対処するには情報が足りないし、そもそも俺の術が通じるかどうか分からない。
悪い噂が無いのだから恐らく実害は出ていない。今後俺が近づかなければ問題ないだろう。
無理をする必要もないので取り敢えず放置。相手の様子に注意しながら車に戻る。
情報誌には他の港の情報も幾つか載っていたが、移動の時間を考えると現実的では無い。
『暇潰しと食材確保に釣り』という計画は、いきなり躓いた。

601『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:27:01 ID:/QxSN9gc0
 げんなりしてアパートに戻る途中、海岸線の道路脇に小さな漁港を見つけた。
灯台もと暗し。此所なら車を出さなくても徒歩でOK、駐車場に車を停めて様子を見る。
寂れた感じはするが荒んだ感じはない。トイレも綺麗に掃除されている。
少し歩くと防波堤が見えた。 足場も良いし、暇潰しの釣りにはぴったりだ。
一度アパートに戻り、駐車場に車を停めてから再度漁港に向かった。歩いて約15分。
防波堤の先端近くに数人の釣り人が見える。地元の常連さんだろう。
邪魔にならないよう十分に距離を取り、防波堤の真ん中辺りで釣りを始めた。
薄暗くなるとすぐにアタリが出て、1時間程で良型のタチウオを2尾釣り上げた。
タチウオの刺身と吸い物を加えた豪華な夕食。これからも気合いを入れて釣りが出来る。
タチウオ以外の魚が釣れるかも知れないし、食べきれない分は冷凍してお土産にすれば良い。
夕食後お屋敷に定時の電話を掛け、Sさんと姫、そして翠の声を聞いた。
自然に笑みが浮かぶ。最初の港での出来事はすっかり忘れて気分良く眠りについた。

602『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:30:43 ID:/QxSN9gc0
 翌日、昼寝の後夕食の下準備をしてから釣りに出掛けた。
前日と同じで、薄暗くなるとアタリが出る。小型は丁寧にリリースし、
良型が釣れたらキープ。一尾毎に血抜きをし、レジ袋に入れる。
のんびりと釣りを続け、3尾目をキープしたところで終了。しばらく夕日を眺めた。
その気になれば毎日でも釣りは出来るのだし、欲張る必要も無い。
ゆっくり釣り具をまとめて立ち上がると軽い目眩がした。立ち眩みか。
修行を始めて既に一週間、疲れも出る頃だろう。
深呼吸をしてから防波堤の上を歩く。10月下旬、既に夕方の風は涼しい。
ふと、風とは違う冷気を感じた。20m程前方に人影が見える。
違和感。自動的に拡張した感覚が警報を告げている。緊急度MAX。
そのあり方自体が俺とは違う。それはおそらく、人の形をした何か。
しかし其処を通り過ぎなければ帰れない。『鍵』を掛けて歩を進めた。
近づくと人影がルアーを投げているのが分かる。釣りをする、霊?
紺のジーンズにクリーム色のパーカー。俺より背は低い。
更に近づき、通り過ぎる直前に横顔が見えた。思わず息を呑む。
少女だ、そして。その白い横顔を伝う一筋の鮮血。
桃色の唇の脇を流れた血は、細い顎の先端から滴って、
パーカーの胸元に大きな赤い染みを作っていた。

603『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:33:57 ID:/QxSN9gc0
 通り過ぎる瞬間、少女は俺を見たが、すぐに海面へと視線を戻した。
そして俺が通り過ぎたタイミングを見計らうようにルアーをキャストする。
通り過ぎてから10m程、俺は立ち止まり海面を見るふりをして少女の様子を窺った。
短めの竿、小さなリール。リールのスプール(糸巻き部分)に肉抜き穴が並んでいる。
特徴的なデザインが懐かしい。S社のリール、『星座』の名を冠したフラッグシップモデルだ。
間違いなく95年型、父親から借りて使った時の感激を昨日のことのように思い出す。
もっと近くから見れば製品名や型番のロゴも確認出来る筈。
おそらく少女が父親か兄から借りて使っていたリールの記憶を再現しているのだろう。
死者が自ら望む姿で現れるのは知っている。
以前関わった事件では、女子高生の霊が持っていた刺繍入りのハンカチが手懸かりになった。
しかし服だけでなく、持ち物=釣り具をこれ程細部まで再現するなんて。
それにしても、この少女に感情が感じられないのは何故だろう。
恨みや憎しみ、あるいは悲しみ。およそ感情らしいものは何一つ伝わってこない。
先日の港で感じた姿の無い悪意と憎悪の塊。この少女の存在はその対極にある。
一心に釣りをする姿を暫く眺めた後、俺はアパートに戻った。

604『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:37:03 ID:/QxSN9gc0
 明日からもあの港で釣りをするべきか、それとも二度と近付くべきではないのか。
夕食を作り、部屋に備え付けのTVを見ながら夕食を食べ終えても結論は出ない。
風呂から出た所でケイタイが鳴った。しまった、定時の電話を。
「どうしたのよ。30分も過ぎたら心配するでしょ?」 Sさんの声だ。
怒っている様子は無いのでホッとする。
「済みません。近くの港で釣り人の幽霊を見て、どうしようかと考えていたらつい。」
「釣り人の幽霊?」 「はい、顔に血が、真っ赤な血が流れていました。」
「...何か嫌な感じはした?恨みとか憎しみとか。」
「いえ、ただ一心に釣りをしているようで、特に何の感情も。」
「血が見えたなら、恐らく何かの事件か事故に関わってる。
十分に注意して、手に負えないと分かったら深入りしちゃ駄目よ。」
「え、でもまだどうするかは」
声を潜めてSさんが囁いた。
「あなただけに見えるなら縁があるって事だし。
第一あなた、あんな綺麗な女の子、絶対放ってはおけないでしょ?」
!?どうしてそれが少女だと...そうか、電話越しに俺の意識を。 思わず俺も声を潜める。
「ちょっと待って下さい。綺麗な女の子だからどうこういう訳じゃ」
「あ、L、電話来たわよ。翠もおいで。」 呼びかける声が聞こえたあと、Sさんはまた囁いた。
「今の話、Lと翠には内緒よ。絶対心配すると思うから。」 「了解です。」
姫と翠の声を聞いてから俺は眠りに就いた。
明日も朝早いし、修行は休めない。また、明日考える、それで良い。

605『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:40:09 ID:/QxSN9gc0
 翌日、結局俺は港へ出掛けた。
防波堤、昨夜少女を見た場所の近くに陣取った。時折ルアーを投げながら時間を潰す。
そして夕日が海面に沈み掛けた時、唐突に少女は現れた。
俺の左側、数m離れた場所に立って海を眺めている。昨夜と同じ服、同じ釣り具。
未だ明るいので赤金カラーのミノーも確認出来た。これは恐らくD社の製品。
そして白い横顔を伝う一筋の鮮血。やはり恨みも憎しみも感じない、一体何故?
ふと、少女の足元から長い影が伸びているのに俺は気付いた。
少女が釣りを始めるとその影も動く。幽霊に影があるなんて聞いたこともない。
そして、一心に釣りをするその姿が、何より俺の胸に痛かった。

606『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:43:13 ID:/QxSN9gc0
 翌日、俺は昼寝の前に電話を掛けた。姫が大学に行っている間にSさんと話がしたかった。
「やっぱり、そろそろ電話が来るんじゃないかと思ってたわ。あの釣り友達のことね?」
「釣り友達どころか、まだ話もしてませんよ。」
「でも、放っておけないならまず話をして、友達にならないといけないでしょ。」
「放っておいた方が良いんでしょうか?でもあのまま放って置いたら、
そのうち『不幸の輪廻』に取り込まれてしまいますよね?」
「恨みや憎しみを感じないとしても、血を流しているとすれば...ねぇ昨夜はどうだったの?
やっぱり女の子の顔には血が?」 「はい、血が流れてました。」
「血は乾いてた?」 「いいえ、頬を伝って顎から胸に。それと。」
「それと?」 「影がありました。」 数秒間の沈黙
「本当に影?間違いない?」
「はい、僕と同じ濃さで同じ方向に伸びる影です。影のある霊なんて、変ですよね。」
「何度か見たことがあるわ、影のある霊。
もしそれと似たケースなら、血を流し続けているのも納得できる。」
思い出した。初めて姫と2人きりで泊まった温泉旅館。
そこに現れた女性の生霊は、月の光を背にしてはっきりした影を障子に映していた。
「あの子の体は、まだ、死んではいないということですか?」
「事件か事故に巻き込まれて大怪我をした。それで意識がない状態だと思う。」

607『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:46:01 ID:/QxSN9gc0
「もし、あの子と話をして、魂を体に戻す事ができたら。」
「もちろん魂が体に戻らなければ回復は望めない。
でも、魂が体に戻っても回復するとは限らないわ。逆の結果もあり得る。」
魂が戻った事が引き金になって、体が死んでしまうこともあり得るということか。
「もし逆の結果になったとしたら、あなたは耐えられる?」
「正直、分かりません。」
話をして記憶を戻した途端、恨みや憎しみの感情が爆発する可能性もある。
そうなればあの子の魂は『不幸の輪廻』に取り込まれてしまう。残った体は抜け殻だ。
しかし、放っておいても遅かれ早かれ同じ結果になる。それならば。
「でも、やっぱりあのままにしてはおけません。綺麗な女の子だからと言う訳ではなくて。」
「分かってる。相手が誰でも、あなたはきっとそう言うと思ってた。
でも、気を付けて欲しいことがあるの。」 「何でしょう?」
「あまり長くあの子と一緒にいるのは良くないわ。そうね、1日30分以内にして。
記憶を取り戻す前にあの子があなたに依存してしまったら、その後の対応が難しい。」

608『約束(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/14(木) 23:48:05 ID:/QxSN9gc0
 「分かりました。何か他には。」
「事件や事故の関係だとすれば、あの子の身元を突き止めるのは難しくないはず。
榊さんに頼んで調べて貰うつもりだけど、あなたはその結果を知らない方が良い。
事前に情報を知っていると、無心に会話することが出来なくなるから。」
「僕はあの子との会話だけに集中するということですね?」
「そう、それから。」 「はい。」
「もしあの子の感情に恨みや憎しみの気配を感じたら対応を一旦中断して。
電話してくれたらすぐに私が其処に行く。」
お屋敷からこの街までは車で半日近くかかる。出来ればそんな事態になって欲しくはないが、
あの子の魂が『不幸の輪廻』に取り込まれるのを術で防ぐことができるのはSさんだけだ。
「ありがとう御座います。頑張ってみます。」
「其処で修行してる間にあなたの力は強くなっていく。
強力な言霊が予期せぬ事態を招くかも知れない。くれぐれも言葉に気を付けて。」
「はい、肝に銘じます。」

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