約束(中)

615『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:24:40 ID:jGaRLGgk0
 Sさんと電話した日の午後から降り始めた弱い雨が翌日も降り続き、
その日少女の姿は現れなかった。再び少女が現れたのはSさんと電話で話した2日後。
そろそろ時間だろうと思って車から降り、防波堤に視線を戻したら既に少女が立っていた。
夕暮れの茜空を背景に立つ、スタイルの良い細身のシルエットが鮮やかだ。
釣り具を持って防波堤を歩く、次第に少女の姿が近づいてくる。『鍵』は掛けていない。
「あの、済みません。此処で釣り、させてもらっても良いですか?」
少女はゆっくりと体を向けて俺を見た。冷たく透き通った黒い瞳。
やはり恨みや憎しみどころか、何の感情も感じ取れない。
しかし、その瞳には吸い込まれるような、抗いがたい不思議な魅力があった。

616『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:26:33 ID:jGaRLGgk0
 「お前は、此処で釣りをしたいと言ったのか? 私に。」
まさかの男言葉。 外見と言葉遣いのギャップに驚いて俺はしどろもどろになった。
「え? あ、そうです。ルアーの釣りを、此処で。」
「それは構わない。だが。」 「はい。」
「私は釣りが下手だから、皆の邪魔にならないように此処で釣りをしている。
魚を釣りたいなら、お前はもっと別の場所を探した方が良い。」
俺を警戒している訳ではなく、心から忠告してくれているのは分かる。
しかしこの言葉遣い...高校生だとすれば5つは年下だろうに、俺を全くの子供扱い。
これではまるで時代劇のお姫様と従者の会話だ。思わず笑みが浮かぶ。
相手の気を悪くさせてしまっては元も子もないし、ここは従者を演じた方が良いに決まってる。
「実は昨日、此処で魚を釣ったんです。」 「本当か?」
「はい、良い型のタチウオを2尾、それで今日も此処でと。」
「そうか、なら好きにすると良い。」 「ありがとう御座います。」
少女はそれきり黙ったままルアーを投げ続けた。自分で言うほど下手には見えない。
そこそこ飛距離も出ている。これなら何時魚が釣れてもおかしくない。しかし彼女は...
その時俺にアタリが来た。重い引き、90cmクラスか。釣り上げたタチウオを手早く処理して
持参したレジ袋に入れる。鋭い歯で袋を破らないように魚体を丸めるのがコツだ。

617『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:28:30 ID:jGaRLGgk0
 「本当に、釣れるのだな。」
少女が手を止めて俺を見ていた。その口元に微かな笑みが浮かんでいる。
「お陰様で。」 少女は再びルアーを投げ始めた。少女の隣で俺もルアーを投げる。
ゆっくりと過ぎてゆく時間。霊を相手にしているとは思えない、のどかな釣りの風景だ。
ただ、この美しい少女の額から頬へと伝う、一筋の鮮血を除けば。
釣りを始めて25分、俺は釣りを切り上げた。少女がルアーを投げながら呟く。
「帰るのか?」 「はい、今日はこれで帰ります。ありがとう御座いました。」
釣りを続ける少女を港に残し、俺はアパートに戻った。
話ができたとはいえ情報はほとんど得られなかった。
事情が分からない以上、Sさんの忠告を守るに越したことはない。

618『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:30:33 ID:jGaRLGgk0
 「榊さんに調べてもらったんだけど、ここ数年の間では
それらしい事件や事故の記録が見つからないの。今はもっと前の記録を調べてもらってる。」
Sさんから電話が来たのは少女と初めて話した翌日の昼過ぎだった。
「病気、って可能性もありますかね?」
「病気で頭から血...脳外科とか?病院の入院患者も調べてもらうように頼んでおくけど、
事情が分かるまではくれぐれも用心してよね。そう、あの短剣、港にも持って行って。
もしあなたに何かあったら、私。」
受話器の向こうで涙を堪える気配。そうだ、4年前とは何もかもが違う。
Sさん、Lさん、翠、そして藍。俺にはもう、何よりも大切な家族がいるのだから。
受話器の向こうで心配してくれるSさんの姿を思うと胸が痛む。ここは何とか。
「大丈夫です。絶対に無茶はしません。それより。」 「なあに?」
「病院関係者に伝があるなら、手に入りませんか?本物の白衣。」 「白衣?」
「見事にこの修行を終えて帰れたら、ご褒美にSさんの」
「馬鹿! ...忘れたの?セーラー服の時、ホントに大変だったんだから。」
電話越しでなければ頬か太股を思い切りつねられていただろう。
しかしそれでSさんの涙が乾くなら、つまらない自虐ネタも充分役に立つ。

619『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:32:28 ID:jGaRLGgk0
 その日の夕方も俺は港へ出掛けた。
買い物帰りなので車を駐車場に停め、そこから防波堤に向かって歩く。
Sさんの指示通り、△木野の主様から授けられた短剣は背中のリュックの中。
防波堤の真ん中辺りで時を待つ。少女の姿が現れた所で歩み寄り、声を掛けた。
「失礼します。今日も此所で釣りをさせてもらっていいですか?」
「構わない。」 口調はそっけないが少女の表情は穏やかだった。
釣りを初めて数分、俺は小さなタチウオを釣り上げた。丁寧にリリース。
「何故、私には釣れないのだろう。いくら下手でも一尾くらい...」
初めて少女が『興味』を示した。これでようやく事態が動く、これからが本番。
ただ、他人から見れば俺は虚空を見つめて独り言を言うことになる。
それとなく辺りの様子を窺う。人影は殆ど無い。防波堤先端に数人の釣り人。
数人、正確には4人。左端の釣り人の青い上着に見覚えがある。

620『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:35:03 ID:jGaRLGgk0
 そこで初めて気が付いた。
俺が此所に来る度に、あの人影が4つ。何故かそれ以外に人影は無い。
いつも全く同じ景色。しかも少女が現れるのは晴れた日だけ。それも同じ。
そして、初めて少女を見る前に感じた、軽い目眩。
俺の世界に少女が現れたのではなく、俺が少女の世界に踏み込んでいるとしたら。
あの幻の川での釣り。記憶がフラッシュバックして、腹の底が冷たくなる。
もしかしたら少女に影があるのは、生き霊だからでは無いかも知れない。
「ルアーの違いかも知れませんよ、ほら。」
俺が使っているのはバイブレーションタイプのルアー。小魚を模しているのは同じでも、
ボラのような細長いシルエットのミノーとは違う。アイゴやメッキのような、平たいシルエット。
「ああ、これは見たことがある。だが、今は持っていない。」
一か八かの賭けにはなるが、俺の疑問を解くのには最高のチャンスだ。深呼吸。
「もし良ければ私の釣り具を使ってみませんか?」
「大事な釣り具だろう。良いのか?」 「もちろんです、どうぞ。」
少女は自分の釣り具を防波堤に置き、俺に右手を差し延べた

621『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:38:52 ID:jGaRLGgk0
 出来るだけ平静に、手が震えないように釣り具を差し出す。
...あっけないほど無造作に少女は釣り具を受け取った。
やはり生き霊ではない。俺の知っている術とは桁違いの力。服や釣り具どころか、
その『領域』までも作り出す程の力はともかく、この少女は生身の、生きている人間だ。
少女の力が作り出したこの領域に、少女自身が囚われている。
恐らくこれが、『神隠し』。姫の言葉通りだとすれば此処では時の流れが止まっている。
一体どのくらい前から、いや待て、あのリールは95年型。少女が18歳だとすれば...
「この竿は、軽いな。その分ルアーが重く感じるが。」
「あ、実際、小さい割に重いですよ。飛距離が出るので広く探れます。」
「投げても良いか?」 「当然です。」
少女が投げたルアーは今までよりも遠くに飛んだ。飛距離10%UPといったところか。
「確かに飛ぶ。とても、良い釣り具だ。」 少女は楽しそうにルアーを投げ続ける。
その頬を伝う鮮血は、乾きかけているように見えた。

622『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:41:15 ID:jGaRLGgk0
 腕時計を確認しながら、俺はルアーを投げた。少女もルアーを投げ続ける。
突然、少女の竿が大きく曲がった。あの時と、同じだろうか。幻の川で釣った川魚。
やがて少女はタチウオを釣り上げた。80cmを軽く越える良型。
タチウオの傍らで立ち尽くす、少女の影。
「釣れた。初めて。」
この機を逃してはならない。慎重に言葉を選ぶ。そして深呼吸。
「あなたは、その魚を食べるのですか?」
「食べる?」 少女は驚いたように俺を見た。
「はい、私は釣った魚を食べるために釣りをします。あなたは?」
防波堤の上で身を捩るタチウオの姿が急速に薄れ、やがて、消えた。
「私は、待っているのだ。釣りをしながら。」
「何を、それとも誰を、待っているのですか?」
少女が右手で頭を押さえて俯いた。大量の鮮血が防波堤に散る。
「駄目だ。思い出せない。思い出そうとすると、いつもこうだ。」
「怪我を、しているのですか?」

623『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:44:16 ID:jGaRLGgk0
 少女はパーカーのフードを脱ぎ、血濡れの髪をかき上げた。
「此処だ。何が見える?」
額の右上、髪の毛の中に異様なものが見えた。高さ3cm、幅2cm位。
厚みは5〜6mm、やや斜めになった断端。白っぽい材質が血を吸って赤黒く染まっている。
何かの破片...これは鏃(やじり)、か。動物の骨から削りだした鏃が折れたのだろう。
恐らくは飛んできた矢が頭骨に刺さった衝撃で。しかし、なんという酷いことを。
「多分、鏃だと思います。鏃の、破片かと。」
「鏃、か。」 少女は一瞬遠い目をした。
「出来れば、抜いてほしい。私には出来ないから。」
少女は無造作に左手でそれを掴んだ。ジリジリという音、肉の焼ける匂い。
「私が触るとこうなる。火傷は直ぐに治るが...何か、抜く方法はないか?」
少女の左手、酷くただれていた親指から中指が見る間に修復されていく。
しかし、俺の手ではこうは行かない。とても素手では。
だからといって、外科で処置してもらう訳にもいかないだろう。

624『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:48:37 ID:jGaRLGgk0
 一体、少女がこの領域から出られるのかどうか。
出られないとして、この領域内に病院があるかどうかも分からない。それなら。
「試してみたいことがあります。ちょっと待って下さい。」
俺はリュックの中から短剣を取りだした。あの年の大晦日、△木野の主様から授けられた短剣。
姫は此の短剣を『理由無く抜いてはいけない』と言った。『収まりがつかないから』と。
それなら、この剣を使う以外に方法を思いつかない今こそ、その時だ。
深呼吸をして短剣を鞘から抜いた。滑らかな感触。
微かに黒みがかった銀色の刃が、月の光を反射して光っている。
短剣を一目見て、少女の表情が変わった。
「何故、人間がその短剣を持っている。お前は、何者だ?」
「陰陽師です。まだ駆け出しですが。この剣ならあるいは、その鏃を抜けるかもしれません。」
少女は黙って俺を見詰めた。じぃん、と、胸の奥が痺れる。今、少女は俺の心を。
「精妙な術を使い、天地の精霊の力を借りるものたちか。 面白い、やってくれ。」
少女は防波堤に腰を下ろし、両足を海面に向かって垂らした。
そしてパーカーのフードの端を噛み、眼を閉じる。最後に小さく頷いた。準備完了という意味だ。

625『約束(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/11/15(金) 23:50:34 ID:jGaRLGgk0
 「失礼します。」 俺は背後から少女の頭頂部に左手の甲でそっと触れた。
短剣の切っ先を左掌に置く。そのまま刃の中程を鏃の破片に当て、力を込めて右手を引く。
ギッ、と硬い感触。刃が鏃の破片に食い込んだ。いける。
「抜きますよ。」 声を掛けてから、俺は一気に右手を引き上げた。
抜けた鏃の破片が足元に落ちるのと同時に、深い傷口から鮮血が吹き出した。
ぐらりと傾いた少女の体を抱き止めて傷口を押さえる。
直ぐに出血は止まり、傷口も見る間に塞がっていく。しかし、少女の意識が戻らない。
心なしか周りの景色が存在感を失いつつあるように見える。
少女の意識が戻らないままこの領域が消滅したら、少女はどうなる? そして俺は?
ますます景色の存在感が薄れていく。これ以上考えている暇はない。
短剣を鞘に収めてリュックにしまい、まとめた釣り具もリュックに縛り付ける。
タオルで鏃の破片をつかみ、そのまま丸めてこれもリュックに放り込む。
少女を両手で抱き上げて俺は急いだ。一刻も早く駐車場へ。そして車に。

『約束(中)』 了

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