遺産(上)

425『遺産(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/09/01(日) 22:19:58 ID:YP4f5pak0
「遺産(上)」

 大きく開いた窓から爽やかな風が吹き込んで来る。
よく手入れされた中庭の木々、柔らかな若葉の香り、そして鳥の声。

 「『聖域』の中、ある場所でスズキを主な対象にした調査を計画しています。
『聖域』の中ですから、調査のためとはいえ殺生は避けたい。
そうなると、資料を採取するのに最適な方法は釣りだと薦められたんです。
網を使うと魚を殺してしまう可能性が高いですし、他の魚種の混獲も無視出来ません。
でも、ルアーでの釣りならスズキのような肉食魚を狙って釣れるし、
かなり大型のスズキにも対応出来ると聞きました。
Rさん、それであなたに協力して欲しいと言う訳です。その、釣りの腕を見込んで。」
依頼主だという男性は、深みのある渋い声で、一言一言呟くように話した。

 その依頼が来たのは姫の大学の新学期が始まった日だった。
姫を迎えに行く準備をしていたら、俺を名指しで『上』からの電話がかかってきた。
そしてその週の土曜日、俺は指定された場所に一人で出向いた。
事前の説明を聞いた限りでは、姫やSさんと一緒に行く必要は無いと思ったからだ。
Sさんは妊娠9ヶ月目に入ろうとしている。出産予定日は6月。
万が一を考えれば、お屋敷にSさんと翠の2人だけという状況は避けたい。
なら、取るべき道は一つ。姫に2人を託して、俺は車を走らせた。
指定された場所は当主様のお住まい、あの大きな洋館の一室。
少女に案内された小さな部屋で、痩せた壮年の男性が俺を待っていた。
銀縁の丸眼鏡、まるで作業着のような灰色の服。
今までに会った一族の人とは全く違う雰囲気、その男性は『遍(あまね)』と名告った。

426『遺産(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/09/01(日) 22:21:40 ID:YP4f5pak0
 「確かに僕は釣りが好きですが、道楽で無く調査や研究への協力となると、
ご期待に添えるかどうか分かりません。正直、自信が無いです。」
遍さんは眼鏡を取り、ハンカチでレンズを拭きながら目を細めて俺を見つめた。
「ルアーでの釣り。まあ、本来なら術者に依頼する内容ではないですよね。
ただ、聖域には一族以外の人間が誰でも入れる訳ではありません。
それに、その、何と言うか、一族以外の人間を使う訳にはいかないんです。あの場所では。」
魚を釣るだけなのに、一族以外の人間は使えない。ということは。
「その場所では何かが起こる、あるいは何かが見える、ということですね?
それも一族以外の人間に知られると困るような何かが。」
「何かが聞こえる、というのも付け加えて下さい。
私は月に10日程、あの場所にある研究施設に滞在しますが、
そこで過ごす間、毎日のように遭遇します。一族以外には知られたくないことに。
もし一族以外の人間がそれらを知れば、当然大騒ぎになるでしょう。
そして巷に厄介な噂が広まる。そういう事態は避けねばなりません。
確かに人の口に蓋は出来ない。ましてネットに拡散したら火消しは不可能だ。

427『遺産(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/09/01(日) 22:26:01 ID:YP4f5pak0
 「まあそういう事情で、どうしても一族の、出来れば術者に依頼したいのですよ。
術者であれば、不測の事態にも対応出来ますから。
しかし術者の中で釣りを、それもある程度以上の腕前でとなると、事実上Rさんしか...」
釣りはあくまで趣味の範囲だと言いかけた俺を、男性が笑顔で制した。
「大晦の宴で見事メーター級のスズキを釣り、霊剣を授けられた程の腕前なら、十分です。」
襟口から冷や水を流し込まれたように、背中と胸が冷たくなる。
「...何故、それを?」
「私には大した力はなく術者でもありませんが、
『上』が術者の動向を把握しなければならない理由は理解しているつもりです。
Rさんの来歴と能力を考えれば、依頼前の情報収集は当然。
私なりの伝でRさんの事を調べさせて貰いました。どうか悪く思わないで下さい。」
遍さんは丸眼鏡をかけ、一度窓の外を眺めてから俺に視線を戻した。
「『聖域』は外界から隔離された場所ですから、今も豊かな自然が残っています。
海岸に近い平地には古い廃村が幾つかありますが、
もう100年近く、この館以外に人は住んでいません。
事実上、手つかずの自然と言っても良い。私はその生態系を研究しています。
『聖域』の中に、この国本来の自然の姿を出来る限り残していく事、
それも私たち一族の大切な役目のひとつなんです。」
遍さんの口調はあくまで穏やかだが、言葉の端々にどっしりとした威厳が感じられる。
自分の仕事に誇りを持つ人に特有の、生き生きとした言葉。

428『遺産(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/09/01(日) 22:28:08 ID:YP4f5pak0
 「今回の調査は、その研究の一環ということですか?」
「ある大学の研究者たちとの共同研究です。もちろん私や一族の名前は表に出ませんが。」
遍さんの言葉通りなら、100年近く手つかずの場所で釣りが出来る。
釣りを趣味とする人間としては、とてつもなく魅力的な話だ。
しかも釣りの結果はそのまま研究の資料として利用される。
しかし。
「あの、調査の時期と期間を教えて下さい。ちょっと家族の事情があって。」
臨月が近いSさんと離れると考えただけで不安になる。正直、辛い。
「御家族、特にSさまの事情は承知しています。
調査の予定は5月の連休をはさんで約一週間。
Rさんは私が管理する研究施設に滞在して貰うことになりますが、
その期間、ご家族にはこの館で過ごして頂きたい。
既に当主様の御許可も頂いていますし、万が一の場合に備えて万全の体制を整えます。」
ふと、当主様と桃花の方様のお顔を思い出した。
もちろん実の親子とはいえ、立場上、血縁は封印されている。
しかし俺が依頼を受ければ、この仕事をしている間、
Sさんは誰に憚ることもなく、実の両親の元で過ごすことが出来る。
これ程心強いことはないだろう。多少おかしな現象が起こるとしても、
命に関わるような事なら、『俺だけ』に依頼するとは考えられない。
俺一人でも対応出来る程度の事、そう『上』が判断しているということだ。
それならもう、断る理由はなかった。

429『遺産(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2013/09/01(日) 22:32:12 ID:YP4f5pak0
 「分かりました。依頼を受けます。
ところで大型のスズキというのはどのくらいの大きさですか?」
スズキの日本記録(スズキは日本固有種だから同時に世界記録でもある)は
確か126cm・13kg。このクラスを確実に取り込むにはそれなりの道具が必要だ。
「私が見たのは最大で1m位の個体ですが、おそらくもっと大きな個体がいるでしょう。
魚体へのダメージを小さくするために、出来るだけ短時間で釣り上げて欲しいんです。
釣り上げたらまず全長と重量の測定。そして年齢確認用に鱗を一枚、
DNA鑑定用に背びれの一部を切り取ってから放流します。」
メータークラスの大物と50cm以下の小物、同じ釣り具ではさすがに効率が悪い。
「小型の個体も狙うとすれば、少なくとも2種類の釣り具が必要になりますね。」
「釣り具についてはお任せします。経費は負担しますから、十分な用意をして下さい。」

 詳しい打ち合わせを終え、『聖域』を出たのは既に日暮れ近く。
お屋敷に戻る前に街の釣具屋に立ち寄った。1mまでのスズキなら手持ちの釣り具で十分。
おそらく時間さえ掛ければそれ以上の大物でも取り込めるだろう。
しかし日本記録級の大物を、しかも出来るだけ短時間で取り込むとなると話は別だ。
20kg程度のGT(ロウニンアジ)をイメージして大物用の道具を新調する。
初めての釣り場だが、考え得る全ての状況に対応出来る準備をしなければならない。
手配を終え、お屋敷に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。

『遺産(上)』 了

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