『星灯(下)』

465『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 18:54:58 ID:9HL3f1e.0
『星灯(下)』

 眼が覚めた。目覚ましを確認する。午前一時丁度、予定通り。そっと身体を起こした。
「待ってます。ずっと、待ってますから。」 姫の、小さな声。
事情を詳しく話した訳ではないが、特に隠しもしなかった。
とても聡い人だから、隠せばかえって不安を大きくするだけ。
お腹の子の事を、今は一番に考えなければならない。誰より姫がそれを分かっている。
だから今夜の件について質問する事もなく、ただ『待っています』と。
背中を向けたままなのは、俺の心に迷いを生じさせないための心遣い。
そう、俺が迷えば姫の不安はさらに大きくなる。だが、大丈夫。
戦うのではない。準備は万端、Sさんとの打ち合わせも済んでいる。
「必ず無事に帰ります。起きていると身体に毒ですから、少しでも寝て下さいね。」
そう、上出来だ。まるで夜釣りに出かける時のように、軽やかに。

466『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:14:42 ID:9HL3f1e.0
 念のため、市営駐車場からさらに約200m離れたバス停に車を停めた。軽の四駆。
Sさんが運転席に移る。1時40分、此所からはSさんと別行動。俺は歩いて歩道橋に向かう。
「くれぐれも注意して。絶対に、焦っちゃ駄目よ。
結界を解く準備が出来次第此所へ戻る。それまでは何とか、時間を稼いで。」
「はい、世間話は大の得意ですから、任せて下さい。
それに佳奈子ちゃんの実の母親なら、きっと、凄く綺麗な女性ですよね?」
「馬鹿、私がどんな気持ちで...」 開いた窓越し、Sさんの唇にそっとキスをした。
「僕はSさんを信じてます。だからSさんも、僕を信じて下さい。」
Sさんは小さく頷き、ハンカチで目元を押さえた。
小さく手を振り、車を見送ってから歩き出す。

467『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:16:12 ID:9HL3f1e.0
 「何だこれ?夜中に大清掃って。」
「ああ、この歩道橋犬の糞が凄いからな。ようやく役所も腰を上げたんだろ。」
「おいおい、犬の糞を踏むなんて御免だぞ。」
「だから掃除するんだろ。ほら、横断歩道使えって書いてある。あっちだ。」
酔っ払いらしい男が二人。大声で話しながら横断歩道へ向かって歩いていく。足下が怪しい。
深夜2時前。古く、大きな交差点だが、新しい繁華街からは少し離れている。
遠ざかる男2人以外に人影は無く、車の往来もまばら。大きな歩道橋を見上げた。
深呼吸、階段に左足をかける。
『もし、若い御方。』 驚いたが、声に敵意はない。
振り向くと、白い着物の童子が立っていた。
正体は分からないが、何れにしろ人では無い、礼を尽くしておくべきだろう。
階段から足を下ろし、目礼。 「私に、何か御用ですか?」
『あなたを術者と見込んで頼みがあるのです。』
「はい、私に出来る事であれば。」

468『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:20:13 ID:9HL3f1e.0
 「この社を封じた術者には、私の朋輩も関わっています。
私はこの結界に入れません。しかしあなたが私の想いを携えて下さるなら、
私の声が朋輩に届くでしょう。どうか一言『その想いを携える』と。』
朋輩?あの時術者は小型犬を連れていたが、まさかあれが?
事情は分からないが、敵意が全く無いなら害にはなるまい。
それに、此所で時間を取られ、約束の時間に遅れるのはまずい。
「分かりました。あなたの想い、携えて中へ入ります。声が届くと良いですね。」
童子はにっこりと笑い、深く一礼して姿を消した。
振り返り、深呼吸。もう一度階段に足を掛ける。

 階段を上り切る直前、通路に人影が見えた。時計を見る、未だ2時7分前。
階段を上りきり、通路に踏み出す。小柄な女性。手摺に左手で頬杖をつき、夜景を見ている
地味なグレーのダウンジャケット、黒のジーンズに白いスニーカー。
ゆっくりと体の向きを変え、俺を見つめた。
右の瞳は白く濁り、右腕は力なく垂れている。右手だけに、黒い手袋
そして香木の甘い香りに混じる、微かな腐臭。間違いない、あの術者。

469『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:22:09 ID:9HL3f1e.0
 「今晩は。お待たせしたみたいで、申し訳有りません。」
女性は小さく首を傾げた。微かな、落胆の表情。
「やっぱり人違い、ね。優れた術者には違いないけど。あなたでは、この結界は解けない。」
女性はゆらりと踵を返した。首筋に鳥肌。正直、怖い。
『優れた術者』と言いながら、無防備な背中を晒し、俺を全く問題にしていない。
人の身の限界に近い力を備えた術者に共通する、強烈な自負。
おそらく狗神の力を使わずとも、一族有数の術者にも匹敵する力。しかし。
「人違いじゃ有りません。あの貼り紙をしたのは僕の師匠です。
今夜僕は師匠の名代として此処に来ました。」
女性が足を止め、ゆっくりと振り返る。
「それだけの力が有れば分かる筈。この結界を張った、私の力。あなたとの力の差。
それともあなた、死ぬのが怖くないの?」
悲しみと苦しみに凍り付いた、冷たい声。感情の欠片もこもってはいない。

470『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:23:51 ID:9HL3f1e.0
 「死ぬのは怖いですよ。大事な家族もいるし、それに近々もう一人子供が生まれます。
あ、このあと結婚するとか子供が生まれるって、映画や漫画だとフラグでしたっけ。」
「こんな時に軽口なんて...」
呆れたような表情、微かに女性の感情が動いたのを感じる。
「まあ、良い。あなたが死にたくないなら好都合。
知りたい事を教えてくれたらあなたは無事に帰れる。私も無理強いはしたくない。
なら、あなたと私の利害は一致してるという事よね?」
「何を、知りたいんですか?」
「娘の居所。10年ぶりに戻ってきたのに、居場所が全く辿れない。
娘の父親、離婚した元の夫が死んだのは分かったけど、その両親の居場所も辿れない。
住民票にも細工されてて転居先は出鱈目。術者が関わってるって、すぐに分かった。」
「だから此所に結界を張った。つまりその術者を呼び出すための罠です。」
「はぐらかさないで質問に答えて。もう、あまり時間がないから。」
「その子はある夫婦の養女になって幸せに暮らしてます。
だから居場所を教える訳にはいきません。
あなたに居場所を教えたら、最悪の場合あの子は死ぬ事になる。」
女性はじっと俺の眼を見つめた。

471『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:26:08 ID:9HL3f1e.0
 「あなた、一体何のために此所に来たの?
私を倒す力はない。なのに、わざわざ此所に来て、『教えられない。』と?
「それに『最悪の場合あの子が死ぬ』って、どういう意味?」
「確かにあなたを倒す力は有りません。だからこそ僕が来たんです。
もっと力の有る術者、例えば僕の師匠が此所に来たら、あなたは警戒して戦いに備える。
つまり『力の源』への通路を開いてしまう。それでは、困るんです。」
「面白いわね。『力の源』って、それが何なのかも知ってるの?」
「この規模の結界を張る力を術者に与える存在。あなたが結界を張った方法。
あなたに直接会って確信しました。あなたの『力の源』は、狗神です。
そして、あなたは恐らく、あの子を産んだ後にそれを体内に封じた。
いや、封じるより他に方法が無かったと言うべきでしょうね。そうなってしまったのなら、
もし僕がその立場でも、涙を飲んで我が子から離れます。それを滅する方法を探すために。」
「私の見立てが甘かったって事?もしも術でその経緯を知ったのなら、
今からでも最大限の警戒をしなければならない訳だけど。」
「冗談は止めて下さい。術では無く、師匠と話し合って予想したんです。
最初の手がかりはあの子の周りに残る気配。亡くなった父親の気配は残ってるのに、
母親の気配が全く感じられませんでした。幾ら何でもそれはおかしい。
愛していても憎んでいても気配は残る筈。敢えて気配を消したとしか思えない。
そんな事が出来るのは術者だけ。それで、師匠に相談したという訳です。
勿論その時点では、あなたがそれを体内に封じたことは知りませんでした。
しかし術者が自らの気配さえも消して娘と離れる程なら、間違いなく事態は深刻。
だから師匠は全ての手がかりを消しました。
将来その子の母親、つまりあなたが戻ってきた時のために。」

472『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:28:21 ID:9HL3f1e.0
 「良い師匠についているのね。だけどまだあなたが此所に来た目的が分からない。
『最悪の場合あの子が死ぬ』という理由も。面白い話だけど、そろそろ本題に入って。」
「狗神を体内に封じた術者には、呪殺を生業とする以外の選択肢がありません。
そして当然、呪殺は禁呪。そのペナルティーはあなたの身体を蝕み、命を削る。
だからその右眼も右腕も、それであなたは『時間が無い』と、そうですね?」
「そうよ。あなたの言う通り、私の身体はもう長くは保たない。だから、あの子を探してるの。」
「身体の崩壊が進み、あなたが死ねば、それは血脈を辿ってあの子の体内に入り込んでしまう。
だから、そうなる前にあなたはあの子を使って狗神を誘い出すつもりでしょう?
自分の体を離れたそれを、あなたが探し当てた術で滅するために。」
女性は小さく溜息をつき、淋しげな笑顔を浮かべた。
「そうよ、それもあなたの言う通り。だから、あの子の居場所を教えて。」
「それを誘い出したら、あなたの力は失われる。なのにどうやってそれを滅するんですか?」
「特殊な代を使って罠を掛ける。それが私の体を出たら術が発動するようにしておけば良い。」
「あなたの力が及ばなければ、術は失敗する。つまり狗神はあの子の体に入り込む。
だから失敗した時のために、2つめの罠を掛ける必要が有りますね。
もし狗神があの子の中に入り込んだら、あの子の身体ごとそれを滅する術。」
長い沈黙、それはSさんと俺の予想が正しかったことを示している。
そして、恐らく2つめの罠こそが、この女性の切り札。

473『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:29:22 ID:9HL3f1e.0
 『呪殺者は仕事に一切の私情を挟んではならない。』
昨夜、Sさんはそう言った。
『私情を挟めば、禁呪でなく外法に堕ちてしまうから。』と。
術者が自ら体内の狗神を滅する方法は無く、
通常の術では狗神使いを殺せても狗神を滅することは出来ない。
チャンスが有るとすれば術者から狗神が離れて移動する時だけ。
つまり術者の身体の崩壊が進みその命が尽きた直後。
そして、術を使えない人間の体に移動した直後の狗神は、十分な力を発揮できない。だから。
勿論赤の他人を行き先に指定し、同じ罠を仕掛ける手もある。
しかし、自分の血縁を助けるために他人を犠牲にするのは私情。つまり外法。
『術者が呪殺者としての矜持を守って狗神を滅するなら、
人生最後の仕事の対象に、赤の他人では無く血縁を選ぶ。』
それがSさんと俺が出した答え。そして、やはりこの女性の答えも同じ。
それならきっと分かってくれる。黙ったままの女性に、精一杯の想いを込めて問いかけた。
『心ならずも呪殺者になったけれど、最後まで術者としての誇りは捨てない。
血縁を助けるために私情を挟めば、今まで殺した人々の魂に顔向けできない。
その想いは理解できます。でも、自分の娘の幸せを願う気持ちも、母親の想いでしょう?』
「...それを滅する方法が他にないのだから、仕方ない。」
「他に方法が有ると言ったら、信じてくれますか?」

474『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:31:32 ID:9HL3f1e.0
 「十年近く、故郷で手がかりを探し回って、
可能性の有りそうな術を1つ見つけるのがやっとだった。
いきなりそんな事言われても、只の夢物語。とても信じられない。」
俺は背中のリュックを下ろし、中から短剣を取り出した。
「抜かなければ骨董品の短剣。しかしこれは神器、ある神様から授かったものです。」
これなら多分狗神を焼き尽くすことが出来る。しかも、この結界はお誂え向き。
為損じても狗神は深手を負うし、しかも結界を出られない。後は師匠に任せれば万全。」
「一切の術を使わず、その剣をこの身体で受けろって事?」
「あなたはあの子と一緒に死ぬ気だった。僕はあなたの覚悟を、信じます。」
「信じる?この、私を?」
女性は喉の奥で笑った後、咽せて咳き込んだ。左手の中指で両の目尻を拭う。
力なく垂れた右腕は、やはりピクリとも動かない。
「依頼主でさえ忌み嫌う、狗神憑きの呪殺師。
そんな人間を、信じるなんて。今まで、そんなこと誰も。」
「それは違う。忘れたんですか?あの人は、『健一』さんはそう言った筈です。
『あなたを信じる。此処へ帰ってきてくれる日を、何時まででも待つ。』と。
離婚して健一さんと佳奈子ちゃんから離れ、それを滅する方法を探すと決めた時に。」
「...さすがに、そんな事まで予想するのは無理よね?どういうこと?
10年前この街に術者は一人も居なかったし、健一と接点がある歳にも見えない。」
「健一さんの妹さんから聞いた話を手がかりにして、予想しました。
健一さんが妹さんに残した式が佳奈子ちゃんに危害を加えるようになって、
僕が妹さんから相談を受けたんです。実際に式を始末したのは僕の師匠ですが。」

475『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:33:06 ID:9HL3f1e.0
 「そう、じゃあ師匠に良くお礼を言って置いて。『お陰で心残りが1つ消えた。』って。
あれは、健一が初めて作った式。私の予想より半年以上も早かったわ。
優柔不断でイライラさせられることも有ったけど、とても優秀な弟子だった。」
「妹さんとの関係、その推移を知っていながら、健一さんと結婚して佳奈子ちゃんを産んだ。
それはあなたが健一さんを、いいえ、あなたと健一さんが愛し合っていたからですよね?」
女性は俺から視線を逸らし、夜景を見下ろした。
ゆっくりと左腕を伸ばし、人差し指で指し示したのは南西の方角。
「あの辺り、小さな花屋でバイトしてた事がある。この街に来てから2年位。
私は、一族で最後の術者だと言われて育ったし、自分でもそのつもりだった。
何時か術者を辞めて、花屋を開くのが夢だったの。可笑しいでしょ?」
「全然可笑しくありません。僕も、僕の師匠も、術者を辞めた後の事を考えています。」
「故郷を離れてこの町に来て、バイトしてた花屋であの人と出会った。
発現しかかった力と、それを制御できない不安に耐えかねて崩壊寸前の心。
あまりに痛々しくて、だから思わず声を掛けて...それから、術を教えるようになった。
妹への想いにも気付いたけれど、それが間違っているとは言えなかった。」
「その時にはもう、あなたは健一さんを愛してた。だから言えなかったんです。
自分の想いを遂げる為に、妹さんを誹謗していると思われるのを恐れたから。」
「健一も自分の想いの過ちに気付いてた。だから急ぐ必要はないと思ってたの。
結婚して、子供が産まれて。自然に、ゆっくりと妹との関係も変化していけば良いって。
でも、そうはならなかった。狗神に、出会ってしまったから。」

476『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:34:45 ID:9HL3f1e.0
 「あの子を産んだ後の、最初の依頼だったわ。深い山の中の、古い小さな集落。
小さな男の子に憑依していた動物霊を祓った事で、狗神の封印が解けてしまった。
多分その男の子は狗神の封を維持する為の代になる筈だったのね。
でも何かの手違いか事故で、その事情が伝承されていなかった。それに...。」
女性は言葉を切り、淋しそうな笑顔を浮かべた。
「動物霊の力が弱かったから、私も事前に深くは調べなかった。
早く仕事を済ませて、あの子の所に帰ろうと、そればかり考えて。
もし調べていても、気付いたかどうかは分からないけど。」
思わず涙が零れた。息を詰めて嗚咽をこらえる。
代となる運命だった男の子を救い、その集落に伝わる古い祟りをその身に引き受けた。
それなのに...術者としての覚悟の1つとはいえ、あまりに過酷な運命ではないか。
「右腕の感覚は無いし、ほとんど動かないから粗い術しか使えない。
濁った右眼で見えるのは、私が殺した人間たちの、憎しみに歪んだ顔だけ。
それでも私のために泣いてくれる人がいるだけで、体中の痛みが少し和らぐ。
良い夜だわ。そして、その短剣で狗神を滅する事が出来るなら、最高の夜になる。
あなたと話していると心が和むけど、やっぱりこの痛みを早く終わらせたい。
さあ、その剣を。私はどうすれば良いの?」

477『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:35:57 ID:9HL3f1e.0
 「僕も経験があるので、一応言っておきますが。」 「何?」
「目茶苦茶痛いですよ。でも絶対に術を、使わないで下さいね。僕は死にたくないので。」
小さいけれど、明るい笑い声。女性の表情は見違える程に柔らかくなっていた。
「あなた、『言霊使い』なのね。道理で素直に話を聞く気になれた訳だわ。
そうね、じゃあなるべく早く終わらせて。痛みを感じる時間が少なくて済むように。」
「分かりました。」 涙を拭い、短剣を握った。左手で鞘、右手で柄。
そう、なるべく短時間で。胸の中央よりやや右、心臓の位置に見当をつける。
深呼吸。

478『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:41:43 ID:9HL3f1e.0
 『お待ち下さい。』
俺のすぐ前、やや右寄りに童子の姿。白い着物、これは結界に入る前の。
『願いを了承して頂きましたが、それでもこの中へ入るのは相当な手間で...
もう間に合わないと覚悟したところでした。』
俺の前で両手を広げた童子の眼には、一杯の涙が溜まっていた。
「あなたは先ほどの。」
『はい。あなたのお陰で、ようやく此所へ入り、そして、とうとう探し当てました。
もう200年も前に生き別れた、私の、弟を。』
女性は呆気に取られた表情で童子を見つめている。
「あの、一体どういう事ですか?」
『この御方の中に封じられているのは私の弟です。
人への憎悪と怒りに血迷い、悪鬼の如き姿に成り果てましたが、滅するのは余りに不憫。
どうかその剣を使うことだけは、お許し下さい。」
「しかしこのままでは。」
『私にお任せを。これまで、憎悪に狂った弟に私の言葉は届きませんでした。
しかし今夜は、あなたの『呪』が力を添えて下さいます。私の言葉もきっと、届く筈。』
童子はゆっくりと向きを変え、女性の正面に立った。
俺の『呪』?一体どういう事だ?

479『星灯(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/12/20(土) 19:43:38 ID:9HL3f1e.0
 『●風丸、起きろ。私の声が聞こえるだろう。さあ、眼を覚ませ。』
そうか、『狗神』もあくまで通称、直接呼びかけるには真の名を。
小さく呻いて、女性が両膝を着いた。 まずい。狗神が眼を覚ましたら俺の手には負えない。
思わず短剣を抜こうとした俺の右腕を、温かい手が背後から止めた。
「駄目、待って。」 耳元で囁く声。すい、と俺の右隣に立ったのはSさん。
小声で何事か呟くと、夜景に存在感が戻ってきた。
続いて足下、乾涸らびた犬の糞が青い炎に包まれる。結界を解いたとしたら、もう狗神を。
唸り声。獣が敵を威嚇するような、太く低い声が空気を震わせた。
『そう、御前の怒りは尤もだ。しかし御前が憎んだ人間たちの血筋はとうに絶え果て、
今の御前はただ、何の関わりも無い人間たちを苦しめているだけ。
そして、人間の身体を渡り歩く内に、人間の深く温かい情に触れ、
御前の憎しみの形はぼやけている。最早誰を、何故憎んだのかも憶えているまい。
もう十分だ、全てを忘れ共に森へ帰ろう。我らが故郷、○×原の、あの懐かしい森へ。』
女性の身体が通路に頽れると同時に、大きな白い影が眼に入った。
並んで立つ、巨大な体躯。四つ足の白い獣。 犬? いやこの大きさは、きっと狼。
「本当に有り難う御座いました。私たちは取るに足らぬ、卑しい存在ではありますが、
あなたが私たちに徳を施した事を、護り神様はきっと、お喜びになりますよ。では、これで。」
次の瞬間、二つの白い影は消えた。すぐに駆け寄り、女性を抱き起こす。
近づけた頬にかかる、絶え絶えの吐息。もしかしたら。
「まだ、息があります。」
「狗神が自分から離れていったから、肉体の急激な崩壊は免れた。でも急がないと。
早く運んで頂戴。車はすぐ其処のバス停。車の中で病院と、それから『上』に電話する。」

『星灯(下)』 了

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